ボードワン博士と小石川植物園

この間、かなり昔の写真展のカタログ「甦る幕末」をなんの気無しにパラパラめくっていたら、それまで読み飛ばしていたキャプションに目がとまりました。

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「A・F・ボードワン医師の送別会。1870年8月、東京の大学東校で教鞭をとったボードワンが日本を去るにあたり、小石川薬園(注:後の小石川植物園)で盛大な送別会が催された際の記念写真」

 

以前、大正9年生まれの東京帝国大学卒の方から、卒業式のパーティを小石川植物園で行ったと伺ったのですが、昔からこうした会に使われていたのですね。

 

Anthonius Franciscus Bauduin(1820~1885)

ボードワン博士は、オランダ出身の軍医で、1862年にポンペの後任として長崎養生所に着任し、神経生理学、眼科学などの医学を伝授しました。

幕府に医学・理化学学校の建設を呼びかけ、その準備のために帰国しましたが、大政奉還で計画は白紙になり、1867年に再来日し、新政府に同内容の呼びかけを行いました。
大阪で務めたのち、大学東校(→東京医学校→東大へとつながる)で教鞭を取りました。

ボードワン博士の弟は、駐日オランダ領事を務めたアルベルトゥス・ヨハネス・ボードワン Albertus Johannes Bauduin (1829~1890)

 

ボードワン博士(左)と報道写真家F・ベアト

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ボードワン博士と医学生たち

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ボードワン兄弟(前列左の二人)

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ボードワン兄弟と友人たち

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このボードワン博士は、彰義隊と新政府軍との戦争(1868)で荒廃した上野に病院や学校の建設計画が進められていると知った際に、自然が失われるのを惜しみ、政府に公園づくりを提言し、1873年に日本初の公園が誕生しました。

その上野恩寵公園開園100年を記念し、博士の胸像が園内に建てられました。

上野公園には度々行っていますが、そんな経緯は全然知りませんでした。
先日院展に行った時に、博士のことを思い出して胸像を探してみました。

 

木立の中にひっそりと建っていました。
裏側から見たところ 右側から3本目の木の下

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1973年に設置された像から、2006年にこちらに据えかえられました。
最初にボードワン博士像としてあったのは、弟の方の姿で作ってしまったものだったそうです。
写真で見ると、博士の方が若々しくしく見えるので、そんな間違いがあったのかな?

冒頭の小石川御薬園の送別会写真に戻りますが、写真の場所は、日本庭園のこのあたりでしょうか? ↓

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↑冒頭の写真と同じものです。 左端の上の方に灯籠が見えています。

 

今現在の植物園内に、1775年、鎖国期に来日したツュンベリー(植物分類学の祖・リンネの直弟子)の来日200年を記念して植えられた松があります。

その奥側、通行止めになっているところに、上の写真とは別物だと思いますが、灯籠や何かの石組が残っていて、これも古いものなのかもしれません。

 

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小石川植物園の日本庭園は、館林藩主・徳川綱吉(後の第5代将軍)の別邸であった白山御殿の庭園に由来するもので、江戸時代末期には蜷川能登守の下屋敷の一部になっていたそうです。

小石川植物園は、その前身の小石川御薬園時代以前からの歴史の積み重ねがあって、調べていくと様々な人々が交差しきて、面白いです。